先輩からのメッセージ 波瀾万丈の学生生活~私が決めた大学進学のかたち~

古山 彩花(ふるやま あやか)
2013年3月 放送大学 専科履修修了
重複障害

写真:古山 彩花さん
古山 彩花さん

108号 2020年7月15日発行 より


はじめに

 皆さまはじめまして、古山彩花と申します。現在26歳です。私は先天性の四肢体幹機能障害があるほか、愛の手帳4度を有しています。都内の公立小学校を卒業後、筑波大学附属桐が丘特別支援学校を経て、現在は、就労継続支援B型施設「ワークショップ・かたつむり」に在籍しています。
 今回情報誌に原稿を書いてほしいとの依頼にとても驚きました。しかし「色々な進学のカタチがある」ということをお伝えできたらと思い、お引き受けしました。最後までお読みいただけたら幸いです。

小学校就学にむけての戦い

 私は二卵性双生児で、双子の兄は、障害はありません。私は、幼少期は兄とは異なる環境で過ごしましたが、小学校の入学前になると自然に「兄と同じ学校に行きたい!」と思うようになりました。私自身は覚えていないのですが、両親が自宅近くの特別支援学校の見学に連れて行った際に、小学4年生の子たちが図工の時間にお絵かきをしているところを見て「この学校はいやだ」と言ったそうです。
 そこで両親と私は地域の小学校入学を決めて兄と同じように準備をしていました。しかし入学直前になっても私向けの「入学前健診」のお知らせは届きませんでした。教育委員会では当然特別支援学校に入学するものとして、就学先をどうするかについて、両親や私になんの確認もなかったのです。幸い兄向けの通知で健診の実施日時や場所は分かっていたので、当日は家族全員で向かいました。就学先の決定まで紆余曲折を経て「母親の全介助」という条件で小学校への入学が認められ、入口へのスロープの設置と、特定のトイレの改修工事だけはしてくださいました。
 小学校の生活は想像以上に大変でした。勉強のペースはそれなりに速いし、休み時間は短いし、毎日ついていくだけで必死でした。学年が上がるにつれて学校行事でも見学や別行動が増え、またいじめの対象になってしまいました。小学5年生の時に「中学校は特別支援学校にしよう」と決めて、自分が決めた小学校生活を最後までやりきることができました。このように6年間は大変でしたが、大切な経験だったとも感じています。

特別支援学校での生活と進路の悩み

 小学校卒業前、私は中学校の制服に憧れをもち、本当にそれだけの理由で中学を受験しました。その後、特別支援学校の中学部に進学しました。特別支援学校での生活では地域の学校とのギャップに驚きつつも、「楽しい」と感じることができ、あっという間に時間が過ぎていきました。
 高等部に進学して1カ月も経たない段階から「3年後について考える」という事実に驚愕しながらも、その後3年間で本当に色々な進路選択を模索しました。はじめのうちは大学や専門学校への進学も選択肢の1つでした。しかし「4年間本気で勉強したいと思える分野」を見つけることはできず、また可能性を感じる分野を見つけても、通学が難しいことや、必要な学生支援を受けられない等の複合的な理由もあり、高校3年生の秋ごろになって1度は大学進学を諦め、現在所属している施設への通所を決めました。しかし私を除く8人の同級生全員が、大学や専門学校や職業訓練校に進学することが決まり、それを見て大学進学への憧れがよみがえってきてしまいました。また、「女子大生」という響きへの憧れも少しだけ捨てきれずにいました。
 ちょうどそんな時、通所施設の都合で1週間に1度在宅となる日があることが決まり、時を同じくして、前々から興味があった放送大学の案内が偶然自宅に届いたのです。そして「放送大学なら仕事と両立しながら無理なく勉強できるし、夢の女子大生にもなれる!」と思い、放送大学への 入学を決めました。
 次に悩んだのは「学び方」でした。放送大学には、最長10年かけて大学卒業の資格取得が目指せる『全科履修生』と、自分の興味や関心に合わせて履修したい科目を選んで取り組むことができる『専科履修生』(履修期間1年)・『科目等履修生』(履修期間半年)の3種類がありました。私は、通学ではなく通信で遠隔教育を受けるのは初めてで不安もあり、ゆっくりと学習を進められる『専科履修生』を選択しました。半期で1科目ずつ学びながら、新しくなる自分の生活や学習の進み具合なども含めて様子をみることにしたのです。こうして科目履修を決めた後に、自分が障害学生として行ったことは、入学手続きに従って所属する学習センターを決めた後に、所属先に身体障害者手帳のコピーを郵送することだけだったと記憶しています。放送大学は、学びたいと願う人たちへの間口が広いと感じ、とても好印象でした。

憧れの大学生生活

 新社会人と大学生を両立しながらの生活は、想像以上に大変なものでした。私が履修していた科目の映像の授業は私の出勤日にテレビで放送されていたので、前日の夜に予約録画をしておき、在宅の日にそれを見て勉強していました。また、例えば休日にヘルパーさんと長距離移動をする時にもテキストなどを持ち歩くようにして、少しでも勉強の時間を取れるようにも心がけました。
 私が最初に履修したのは、英語の発音についての科目です。あまり自信はありませんでしたが、高校時代に感じた楽しさをキッカケに選びました。しかし、映像授業やテキストがあるとはいえ、高校時代には触れなかった発音記号や発音を1人で勉強するのはとても難しいことでした。本来なら、学習センターで同じ志をもった仲間と勉強することが一番良いと思いますが、学習センターに行くには母親による送迎や身体介助が必要なので、なかなか難しいことでした。そこで私は、学習が足りない部分は休日に高校時代の恩師に直接指導を受けることで補うことにしました。授業も半分を終えたころ、テキストを見ながら選択式の問題に解答する形式の添削課題が届きました。添削課題に無事に合格し、後半の学習を進めました。
 こうして前期の授業を全て終え、単位認定試験を受けるために所属する学習センターに行きました。試験場では個別に対応をしてくださり、とてもリラックスして臨むことができました。しかし試験の結果は不合格で、次学期に再試験を受けることになりました。
 後期は、再試験の勉強をしながら福祉系科目を履修しました。内容は、今自分が利用している制度が制定された背景や歴史、今後の見通しまで様々で、自分の生活と繋がることが多く、知識を深めることができ、勉強して良かったと思いました。この科目では、勉強の時間がとても楽しかったです。添削課題も合格しました。
 後期の最後に、前期の英語の再試験も含めた2日連続の単位認定試験を迎えました。福祉系科目は比較的自信がありましたが、英語の発音についての科目は不安でいっぱいでした。結果は、英語の発音についての科目は不合格でしたが、福祉系科目は単位を取ることができました。とても嬉しかったです。

単位取得とその後の決断

 英語の発音についての科目は単位を落としてしまう結果となりましたが、福祉系科目の単位を取得して知識が増えたことで、自分のなかの「女子大生になりたい!」という気持ちに一定の整理がついたことに気がつきました。「このまま放送大学で勉強を続ける」という選択肢もありましたが、「このまま生半可な気持ちで勉強を続けても、今度はそのことが自分自身を苦しめてしまう」と考え、今の清々しい気持ちのまま学生生活を終えようと決めました。放送大学の学費等は、半期ごとに履修科目数に応じての支払いとなり、『専科履修生』は履修期間が1年なので、期間満了での「修了」となりました。
 放送大学で学んだ1年間は、これからの自分の人生にとってかけがえのない時間になると思います。「進学のカタチ」が周りと少しだけ違っていたかもしれないけれど、「大学に進学したい!」という夢を叶え、最後まできちんと勉強することができて、自分で納得して次のステップに進むという決断ができたのは、とても大きなことだったと感じています。

これから羽ばたく皆さんへ

 私には放送大学での学びを含めた13年間の学生生活で培い、今の生活に生かされていると感じていることがあります。それは、「やりたい!」と感じたことを徹底的に最後までやりぬこうという気持ちです。もちろん、色々と試行錯誤しても最終的にできないことも多くあります。しかし「可能性が1%でもあるなら、その可能性を徹底的に追い求めてみたい」と思っています。
 前半部分で書きましたが「兄と同じ学校に行きたい」という思いから、母親の全介助という条件ながらも、公立小学校に入学したことや、小学校6年生の時、「中学生になったら制服を着たい」という思いから、勉強が好きではないながらに中学受験を決めたことは、代表的な一例だと思います。ですから皆さんにも、この先色々な困難が待ち受けていても、それを解決しようとする可能性を模索してほしいと思っています。
 数年前まで障害学生の大学進学は珍しいことでしたが、今はそれほど珍しいことではなくなりつつあります。この先のことはどうなるか分かりませんが、近い将来、障害学生の大学進学が「あたりまえ」になる時代は来ると思います。また、大学進学をしたいという気持ちや能力があるのに、身体的に重度であることを理由にすぐに諦めたりしないでほしいです。私は、「通信制教育や遠隔教育での大学進学・卒業」という選択肢が、どんな人に対しても開かれていくことを願わずにはいられません。