東 佳実(あずま よしみ) 2015年関西福祉科学大学卒業 肢体障害
114号 2022年2月15日発行 より
みなさんこんにちは。私は大阪の東住吉区にある自立生活センター・ナビの東佳実といいます。私は平成4年4月21日生まれで、現在は29歳です。私の障害は先天性の「捻曲性骨異形成症」「高度混合性難聴」と後天性の「脊髄損傷」です。
幼少期は手術やリハビリをしていたこともあり、同年代の障害児の友達はいましたが、健常児との接点はほぼありませんでした。しかし6歳半の頃初めて地域の保育所に通うことになり、そこで初めて同年代の健常児と接しました。最初はどんなふうに話したらいいか戸惑いましたが「なんで(体が)小さいの?」と聞かれ、私はとっさに「生まれつきの病気やねん!」と答えたそうです。そこから他の友達とも打ち解けることができ、自然と健常児の輪の中に溶け込んでいました。
友達はたくさんできましたが、中でも印象に残っている子が2人います。一人はMくん。毎朝私のところに来て「リュック持ってあげる!一緒に行こう!」と片方の手で私の母からリュックを受け取り、もう片方の手で私の手を握って教室の中に引っ張って行ってくれました。歩くのが遅い私のペースに合わせてくれたり「危ないよ、気をつけてね」と優しくリードしてくれました。私は、他の子と遊んでいる時もチラチラと気にかけてくれたり何かと世話を焼いてくれるMくんに、いつの間にか恋心を抱くようになりました。今思えばMくんは私の初恋でした(笑)。もう一人はIちゃん。とても元気な女の子で、いつもみんなの中心にいました。優しいけど我が強く、私は意見してもいつも負けていました。ある日のこと、ままごとをして遊ぼうとした時、Iちゃんと私どちらがお母さん役になるかでバトルが始まりました。この日も言い負かされそうになり、いつも負けていたので悔しくて、私は思わず手を上げてしまいました。するとIちゃんも負けじと私を叩き、2人で殴り合いの大げんかをしました。見かねた先生に止められましたが、結局どちらがお母さん役になったのかはあまり覚えていません(笑)。残念ながらMくんもIちゃんも小学校は別の校区だったので、卒園と同時にお別れしてしまいましたが、幼少期に地域の子と同じ保育所に通えたことは、私にとってインクルーシブ教育に興味をもつ原点になったと思います。
保育所を卒園し、私はそのまま地域の小学校へ入学しました。入学拒否などは特になく、私が入学するタイミングでエレベーターも設置されました。私は特別支援学級(当時はまだ養護学級という名称でした)に属していましたが、基本的に全ての授業を通常学級で受けました。1クラス(28名)と子どもの数が少なかったのと、同じクラスにかなり重度な知的障害の子がいて、養護学級担任はその子に付きっきりで、私はある意味放置されていました。このように先生がつかなかったおかげで、友達もすぐ出来て、休み時間はたくさんの友達と遊んでいました。放課後は大阪市の取り組みである「いきいき活動(以下:いきいき)」にも通いました。教室が1部屋開放され、1年生~6年生までの利用を希望している児童が集まって、各々好きな活動をしていました。私も小1から卒業するまでいきいきに通い、年齢関係なくたくさんの友達と一緒に遊びました。 そして小2の終わりに定期的に受診していた整形の通院の際に「側彎(わん)症が進行しているので手術した方がいい」と言われ、小3のときに背中の骨を真っ直ぐにする手術を行ったのですが、その時の後遺症で脊髄損傷になってしまいました。手術が終わり目を覚ますと足が鉛のように重く、動かそうと思っても全く動かないし、「今触っているけど分かる?」と聞かれても触られている感覚も全くなくて、とても動揺したのを覚えています。そしてさらに驚いたのが、トイレの感覚もなくなっていたことでした。そこから約3カ月程度リハビリをした後、違う病院に転院することになりました。その病院はリハビリ専門の病院で、同世代の子どもがたくさんいました。入院生活はとても楽しかったですが、給食がとても多いのに残したらダメと言われ、がんばって食べていました。歩けなくなり運動ができなくなったので、そこでの入院生活で一気に太ってしまいました。 小4の春に地元に戻ってきて学校にも復帰しましたが、小3のほとんどを入院していたため同級生はみんな気まずそうで、話しかけてくれなくなりました。さらに歩けなくなって電動車いすに乗っている私を見て、どう関わっていいのか分からない様子でした。私もそれまで社交的だった性格が一転し、周りの顔色をうかがう性格になってしまい、同級生にもこれまで通り一緒に遊べる子がいなくなりました。授業は今まで通り通常学級に入ることになったのですが、周りに遠慮するあまり、消しゴムを落とした時に「拾って」という一言すらも言えなくなっていました。次第にクラスでは孤立し、特別支援学級にいる時間が長くなっていきました。このときの唯一の楽しみはいきいきに通い、後輩の面倒をみることと帰宅後に家でチャットやネットゲームをすることでした。チャットでは年下の北海道の女の子と知り合いました。その子は学校でいじめられていて、私はその子と話をして私なりに慰め続けていたら、その子が「聞いてくれてありがとう。楽になったよ」って言ってくれました。その時に「あ、私にできることはこれかもしれない」と思い、そこから自分でいろいろ調べ「カウンセラー」という職業があることを知り、志すようになりました。
中学も地元の中学校へ行き、保育所で一緒だったMくんやIちゃんとも再会しましたが、以前の私ではなくなっていたので積極的に話しかけることはできませんでした。小学校までは親の送り迎えが必須でしたが、中学校は家から近かったので一人で登下校することになりました。母と「行ってきます」「行ってらっしゃい」のやり取りできるのがうれしかったです。 中学では、部活は放送部に入りました。放送部の同期や先輩とはすぐ仲良くなり、初めて親の付き添いなしで遊びに行きました。その時の定番はカラオケとプリクラで、もともと歌うのは好きでしたが、カラオケに行くようになりますます好きになりました。中学では友達関係もうまくいきとても楽しかったのですが、修学旅行間際に一番仲が良かった友達と大げんかをし、それ以来高校進学について悩むようになりました。健常者と一緒にいると、自分がどれだけ出来ない人間なのかを思い知らされ、やってもらわないと何も出来ない不甲斐なさや申し訳なさ、そして健常者に見捨てられては生きていけないという危機感から、友達とも対等に接していたわけではないなと気づきました。どこかで気を遣いながら、嫌われないように接していたのがしんどくなり、高校でも気を遣いながら素の自分を見せることが出来ないまま健常者と一緒に過ごすのが嫌でした。また勉強が苦手で、高校でついていけるかも不安で、結局高校は特別支援学校を選びました。
特別支援学校には、私より障害が重度な子がたくさんいました。当時の私は「私は喋れるし、この子たちに何かしてあげられそう」とかなり上から目線で見ていました。高校では他の友達の様子をみてしんどそうな子や意思疎通が難しい子の言葉を聞き取ったり、してほしいことを感じ取って先生に伝えたり、生徒会長や各イベントは率先して内容を考えたり、司会など中心的な役割を買って出るなど、今までとは比べ物にならないくらい活発になりました。 特別支援学校は学年のクラスとは別に、学力別のクラスもありました。クラスはA~Dまであり、私はAクラス(通常カリキュラムに準ずる課程)、つまり高校の教科書を使ったクラスに属していました。とはいっても高校の内容はほぼせず、中学校レベルの勉強をしていました。このクラスには同学年の友達はいなくて、先輩や後輩と授業を受けていました。一番仲の良かったのは1つ先輩の女の子で、その子は二分脊椎症で、手動の車いすに乗っていました。恋バナなどもたくさんしたし、メイクもその子から教えてもらいました。Bクラスの友達は少し勉強が苦手なだけで、それ以外は「普通の高校生」でした。休み時間に集まってくだらない話もしたし、彼氏や彼女と隠れて授業をさぼったりしてる子もいました(笑)。 学校へはスクールバスで通う子と自力通学の子がいて、私は高2から自力通学でした。同じ自力通学組の友達と、放課後に帰宅していないのに「帰宅連絡」をして、カフェやカラオケで遊んだりしてとても充実した高校生活を送っていました。そして、私は高3のときに行った福祉実習で「自立生活センター」のことを知りました。障害のある方が障害のある方の相談に乗る仕事だと聞いて私は「自立生活センターで働きたい」と思いました。
そんな高校生活で私は自分の役割を改めて見つけ、やっぱりまずは心理学を学びたいと思い、AO入試で大学受験をし、再び健常者社会に飛び込む決意をしました。大学へは電車を使って一人で通学しました。入学したての頃は健常者にびびりまくり、自分から声をかけられず、周りはどんどん友達を作っていたので、置いていかれている感じがしてとても焦っていました。しかし、入学4日目に初めて同じ学科の女の子2人と友達になりました。最初、私はノートを出してもらったり何かしてもらうたびに口癖のように「ごめんね」と言っていましたが、ある日そんな私に友達は「『ごめんね』じゃなくて『ありがとう』の方がうれしいよ!」と言ってくれました。それ以来、私は徐々に周りの子にも自分の本当の姿を見せられるようになり、心から楽しんで過ごせるようになっていきました。そして軽音サークルに入ったり、ボランティアサークルを立ち上げたり、他大学の友達と交流したり、音楽活動を始めたり、ゼミの活動で夜遅くまで教授や先輩たちと勉強したり、大学ではたくさんのことを経験しました。
今の職場「自立生活センター・ナビ」の代表とは大学3回生の時に知り合いました。高校の時の経験を話し、いろんなイベントに顔を出すようになり、代表から「ウチで働かない?」と誘っていただき、新卒で雇っていただくことになりました。 私は今「インクルーシブ教育」について興味があります。小中を通常学校、高校を特別支援学校で過ごしたからこそ、両方の経験を持つ者として言いたいのは、「今の日本の教育システムに問題がある」ということです。インクルーシブ教育というのは「障害のある子ども、ない子どもをただ同じ教室で学ばせていればそれでいい」というわけではありません。そこには必ず無理が生じたり、どちらかが辛い思いをすることにつながります。今の教育システムには、そもそも1クラスを担任1人で見ること、全員が同じ教科書を使い、同じ教室で学ぶこと、学力診断テストなど、健常の児童でさえしんどいと感じることがたくさんあると思います。そんなところで障害のある子どもも一緒にというのは現実的でも合理的でもなく、「インクルーシブ」の意味を今一度考える必要があると思います。「障害のある子どもに対してだけ」ではなく「全ての子どもを対象とした」合理的配慮がなされれば、特別支援学校は必要なくなると思います。「いろんな人がいるんだよ」というのを小さいうちから体感できる環境で過ごせた子どもは、大人になっても「障害者」に違和感を持つことなく普通に接することができます。インクルーシブな社会は、インクルーシブ教育があってこそ成り立つものです。 とても長くなりましたが、今後もいろんな方と出会い、話し、少しでも多くの方に本当の意味でのインクルーシブ教育について知ってもらえるよう頑張っていきたいです。ありがとうございました。