平井 望(ひらい のぞむ) 筑波技術大学大学院 技術科学研究科 情報アクセシビリティ専攻1年 聴覚障害
98号 2018年3月3日発行 より
はじめまして、平井 望と申します。聴覚障害(ろう)で、手話をメインにコミュニケーションをとっています。私は短期大学、社会人10 年、海外留学1年の経験を持つアラサーの現役大学院生です。今回はそんな私の、たっぷり詰まっている思い出をぎゅっと凝縮して皆さんにお伝えしたいと思います。
私は4人きょうだいの2番目で、祖父母も含めた8人家族の中で育てられました。3歳の頃、原因不明の重度の感音性難聴と診断され、それ以来ずっと補聴器を使用しています。幼稚部から高等部までろう学校に通っていました。学校では小学部の高学年まで口話教育を受け、中学部からは手話と口話を併せ持ったコミュニケーション手段で授業を受けていました。私は健聴者の家族のもとで育てられ、家族とは口話で会話していました。ですから社会に出ると口話は絶対欠かせないと思っていました。しかし私の発音が曖昧で、健聴者に通じるのは五分五分ということもあり、自分自身は口話だけのコミュニケーションに限界を感じていたにもかかわらず、なかなか周囲の人にそれを言い出せませんでした。 ところが、私に口話教育を身に着けさせることに大変厳しかった母が、どこで考え方が変わったのか、私とのコミュニケーションをもっと深めたいという思いがあったようで、私が中学生になった頃に地元の手話サークルに通い始めたのです。それをきっかけにして、母と私との会話の形がだんだん変わってきました。そんな母の影響なのか、姉や妹も簡単な手話や指文字を覚えてくれるようになり、きょうだいとの関係も深まりました。
ろう学校を卒業した後、筑波技術短期大学(現在の筑波技術大学)という、日本で唯一の聴覚障害者と視覚障害者のための3年制短期大学のデザイン学科に入りました。子どもの頃から絵を描くことが得意なので、将来デザインの仕事に関わりたいと思い、3年間デザインの専門を学びました。 私は大学に入るまで、自分の障害に対する見解がまだ確立出来ていませんでした。大学1年生の時に「聴覚障害学」の講義を受けたのをきっかけにして、周りの同じ障害を持つ友人と関わっていくうちに、自分のことをろう者として自然に受け入れられるようになりました。中学から高等部にかけてすでに手話でコミュニケーションをとっていたにもかかわらず、短大に入ってようやく「ろう者としての自分」を受け入れられるようになったのは、長年の口話主義の考えに自らが縛られていたからであり、また短大に入って初めて自分の障害を振り返って見つめ直す機会があったからだと思います。
短大卒業後は、都内の住宅建材の企業に就職しました。短大で身につけたデザインの専門知識を活かし、住宅関連のデザイン開発に携わっていました。社内の人間関係は大変良好でしたが、合理的配慮として手話通訳やパソコン通訳など情報保障にかける予算が足りないという理由で、すべての会議や打ち合わせに情報保障がつけられず、満足のいかないことが多くありました。当時社内では経費や人件費の大幅な削減があり、経営が苦しい状況だったので、情報保障のための予算が足りないのはやむを得ないことだと思いました。もちろん手話通訳やパソコン通訳のついた会議はとても充実していました。通訳のつかない会議では、同じ部署の方々がノートテイクという形で、電子メモパットを使って要約筆記をしてくれました。最初は嬉しかったし、業務を楽しく感じていました。しかしそれが毎日となると、業務とはいえ周りの人たちは残業が多いので、私のためにさらに負担をかけてしまっていると思うと気を遣ってしまい、会議中のノートテイクを遠慮して質問があまりできなかったことも少なくありませんでした。通訳なしの会議が入ると、自ら上司に「私は通訳なしの会議には出席しません。その代わり、デスクワークの業務に専念させてください」と申し出るようになりました。一見ネガティブなように見えるかもしれませんが、内容の分からない会議で2、3時間も我慢して座っているよりも、貴重な時間を別のことに使った方が効率的であり、自分も精神的に苦痛を感じることはないと思ったからです。情報保障のための予算不足だけが問題なのであって、上司の申し訳ない気持ちもこちらには十分伝わっていました。人間関係がうまくいかず転職してしまう友人が多いなか、人間関係が良好であるだけでも自分は恵まれているのだと思っていました。10年の勤務を続けられたことは職場の皆さんのおかげだと思っています。
その後2015年に「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」で個人研修第35期生として選ばれたため、10年勤めた会社を退職しました。研修先はロシアのサンクトペテルブルクにある全ロシア聴覚障害者協会というところで1年間研修を受けました。厳密には1年間のうち、ロシアに9ヶ月、欧州諸国に3ヶ月滞在しました。つまりロシアを研修の拠点とし、欧州諸国へは1週間とか3週間などの視察に、それぞれロシアとの往復で出かけるといった形で、研修生活を過ごしました。研修テーマは「欧州のデフスポーツを背景に、ろう者の特性に応じたスポーツマネジメントを学ぶ」という内容です。(※デフ=Deaf、聴覚障害者のこと) 私はデフビーチバレーボール日本代表選手として2009 年夏季デフリンピック(聴覚障害者の最高峰のスポーツ大会)に出場した経験があり、その後から現在に至るまで会社勤務の傍ら、デフビーチバレーボール日本代表チームのスタッフとしてサポートをしてきました。その経験から日本のデフスポーツを取り巻く環境が良くないという状況を変えたいという思いを持っていました。なぜ研修先にロシアを選んだかというと、ロシアはデフリンピックのメダル獲得数が世界一であることと、大会で結果を残すと、日本ではほとんど例のない報酬を受けられるという待遇の良さに注目したからです。 ロシアのろう者とのコミュニケーション手段はロシア手話です。国際共通語として、英語に相当する国際手話もありますが、私は個人的にロシア手話に興味をもっていたので、留学前の約2年間、ロシアの友人にスカイプでロシア手話を教わっていました。ただ、ロシアは英語がほとんど通じない国なので、ロシア手話だけでなく、ロシア語の学習にも力を入れました。語学は独学だけでは限度があるので、基本を身につけてから、週1、2回ほど、仕事帰りにロシア語の語学教室に通いました。 こうしたロシア手話学習の積み重ねが大きく発揮され、研修先ではホームステイさせていただいたろう者夫妻を含め、現地のろう者とのコミュニケーションに特に困ることはありませんでした。ロシアの健聴者とはロシア語の筆談でやりとりしていました。ただほとんどのロシア人は筆記体で書くので、活字体しか読めない私は「すみません、活字体で書いてくれませんか」とお願いしなければならず、筆談でもなかなか通じないという、現地でしか知ることができないことも経験しました。 欧州の視察では、主に欧州のデフスポーツ競技の各大会の運営状況を知るために一人で渡航しました。当時、ベルギーの空港やトルコの各地ではテロが連発していたため、日本人観光客の減少が進み、女性一人での渡航には不安がありました。それでも計画どおり、ドイツ、ポーランド、スロベニア、イタリア、ギリシャ、トルコ、チェコ、ベルギーの8カ国をまわりました。とくにトルコ視察の時期が、トルコ軍によるクーデター未遂で混乱を起こしていた時とちょうど重なり、国内で多くの死者やけが人が出ました。私の滞在していたホテルでも連日テレビでその様子が中継されていました。家族や友人らから心配のメールがきましたが、私は幸い混乱のあった場所から遠く離れた都市にいたおかげで、混乱に巻き込まれるようなことはありませんでした。それでも視察の最後であるトルコを無事に出国できたときに、大きな安堵感を覚えたことが、欧州視察で一番印象に残っています。ロシアだけでなく、欧州諸国の多くのろう者と人脈がつながり、私の中の世界がぐんと広がりました。 留学で様々なことを学びましたが、私を色々助けてくださったロシアの親切な人の多さと、国境を越えてもろう者同士で手話でのやりとりができることのすばらしさが私の中で際立っています。
ロシアから帰国した私は再び就職するかどうか悩みました。しかしせっかくロシアで学んだことを研究で深められないかと考え、またダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業のアドバイザーであった大学の教授の勧めも手伝い、大学院に進む道を選びました。 私が入学したのは、筑波技術大学大学院の情報アクセシビリティ専攻というところで、障害のある人々が必要とする情報に平等にアクセスするための支援に関する知識を身につけながら、聴覚・視覚障害の支援に関する研究を行うというのが特徴です。2020 年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まり盛り上がりつつあります。しかしデフスポーツも含めた障害者スポーツでは、人材・環境・資金不足に悩まされており、運営を行う中で多くの課題があります。こうした課題を解決するための手助けになれるようなものにつなげたく、日々研究に励んでいます。 筑波技術大学は短大時代と比べて、情報保障の設備も支援制度もかなり進んでおり大変充実しています。とくに面白いと思ったのは、1つの教室でろう学生、盲ろう学生、視覚障害学生が同時に講義を受けられるところです。健聴の先生が手話なしの音声で教える場合には、これらの学生のニーズに合わせて、遠隔操作文字通訳、点字のテキスト、触手話、ノートテイクなどで情報保障が受けられます。まだ様々な課題はありますが、この試みはおそらく世界で初めてで、筑波技術大学でしか実施されていないことだと思います。このように様々な障害の学生が同じ教室で1つの講義に参加できる情報保障システムを、多くの人々に知ってもらうことで、大学や企業などに広まるといいなと思っています。修士課程を修了した後の進路はまだ決まっていませんが、今研究している内容と関係する仕事に就き、デフスポーツの運営向上のために役に立つ活動をしていきたいと考えています。
やりたいことがあれば考えるよりも、まずは少しでもいいから動いてみることが大事だと思います。挑戦することに勇気は要るかもしれませんが、やらないで終わるよりもやってから後悔することの方が、長い人生で大きな糧になります。皆さんを応援しています。